■絶望の朝
昨日は友人5名(?)ほどお泊まりで日記ができなかった。ちゅうか、する気が起こらなかった。そんなことより、眠い。
こうやって怠慢が積み重なるのはどうもよくない。それは判っているのだけど遊びたい気持ちも多々あって、こんな遊び惚けていても欲求が昇華されないので、一人の時は本を読んだり映像を見たり、無駄に食事をしたり。
そういうとき、やはり自分は人間であって、動物であることに気付く。理性的に生きようとして本能が優先する。課題などの場合は特別後回しになってしまうのは当然のことか。
そんなこんなで今日も2名様がお泊まりしている。
我が家のオープンさは異常だという声をよくいただく。去年まではそんなことみじんも感じなくて、現代の閉鎖的な関係を馬鹿にしていたりしたが、最近になってどうもそればかりではいけない気がしてきた。
閉めるところを閉めておかないと、変なものが漏れてしまう。特に、パソコンの中身などがいい例だろう。
かくいう私のパソコンの中もだいぶ変なものが詰まっているから下手に誰かに触らせてしまうと結構引くことになるのは容易に理解できる処。
緊縛のやり方を普通にIEのお気に入りに登録していたりそんなことくらいだけど、って、みる人によってはそれほどのことだけど、やっぱりそういうところは少し慎むべきことなのかもしれない。
つって、結局いつもどうぞご自由にお触りくださいとしてしまうのだけど・・・
今日(11日の朝というか昼)は12時30分に起きた。
普通に考えて、授業も遅刻の流れ。私の朝の準備は最低50分はかかるのだ。
本当ならば朝の内にしておきたいことが3つ4つあったがそれも放置した。
一昨日の晩に日記につけたことは珍しく結構こなせたのでやるべきことは少しくらい積んでも大丈夫だろうとその時は判断したのだけど、後になって考えてみればこの怠惰がいつも後悔に繋がっている。
そうやって課題を積んでしまったぶん、娯楽のほうを優先的に処理した。
一昨日まで半分ちょいしか読めていなかったスカイ・クロラはその日の勢いで全部読み切った。どうやら本を読むというのはその日のテンションに左右される部分が大きいようだ。
それが結構、今日も続いていて、授業中(他の人が面談している中)に2巻目のナ・バ・テアを80ページほど読んだ。
スカイ・クロラを読んでいても思ったのだけど、これらの本、たくさん縛られた紐がほどける感覚がもの凄く心地良い。ファンタジー(?)を読んでいるのに、何かミステリを読んでいるような感覚にふと襲われる。これも作者が森博嗣たるせいなのであろうか。そういう私は森博嗣のミステリは積みっぱなしで一冊も読んでいないのであまり信憑性のある発言ではないけど、とにかく、世界の描き方というものが、やはりこういう趣向が好きなのだなと自分で改めて納得する。
つまり、上遠野浩平のブギーポップの一冊目で書いてたような、
"物語の登場人物は、自分の役割の外側を知ることができないのだ。"
ということ。
だからこそ、主観的に主観に入り込める。そんな気がした。
それが気に入ったので、奨学金も入ったことなので、
"ナ・バ・テア"と"ダウン・ツ・ヘブン"
を買ってきた。
授業のほうは、適当に、そつなく何もしていない課題のことをさも模索していたかのように語っておいた。後で問題にならなければいい。
今日は授業を終えてからも学校にはいて、何かと作業をしていた。自分のことは今日も何一つ手をつけていないから、この穴をどこで埋めようか思索しなければいけない。課題からとえりあえず少しでも開放されたいと思うけれど、それ以上に考えないといけないこともある。
どうにしても、今がかなり面倒くさい時期にあることに変わりはない。
外が明るくなってきた。
どうもこういう朝の霧がかった空気は好きになれない。徹夜してしまったという後悔の念もあるし、子供時代、早起きをしなければならなかったラジオ体操とかのことを思い出す。
生活リズムなんてものは誰が決めたのだろうか。早寝早起きは体にいいとよくいうが、それはどこまで確かなのだろうか疑問に思う。
逆転的に発想して夜型の生活を+の方向に、ようは遅寝遅起きを肯定、よしとする方向で研究したら結果はどうなるのだろうか。
歴史がつくった文化というものを盲信して、良い悪いの分別がそこからつくられてしまうことがどうも納得がいかない。
先人がやったことは偉大かもしれない。だけど、それ以上に失敗というか、考え違いもしているはずだと思う。多くのことを考え、理屈を付けたってろくでもないことは結局ろくでもないんじゃないかな。
それではおやすみなさいそしておはようございます
こうやって怠慢が積み重なるのはどうもよくない。それは判っているのだけど遊びたい気持ちも多々あって、こんな遊び惚けていても欲求が昇華されないので、一人の時は本を読んだり映像を見たり、無駄に食事をしたり。
そういうとき、やはり自分は人間であって、動物であることに気付く。理性的に生きようとして本能が優先する。課題などの場合は特別後回しになってしまうのは当然のことか。
そんなこんなで今日も2名様がお泊まりしている。
我が家のオープンさは異常だという声をよくいただく。去年まではそんなことみじんも感じなくて、現代の閉鎖的な関係を馬鹿にしていたりしたが、最近になってどうもそればかりではいけない気がしてきた。
閉めるところを閉めておかないと、変なものが漏れてしまう。特に、パソコンの中身などがいい例だろう。
かくいう私のパソコンの中もだいぶ変なものが詰まっているから下手に誰かに触らせてしまうと結構引くことになるのは容易に理解できる処。
緊縛のやり方を普通にIEのお気に入りに登録していたりそんなことくらいだけど、って、みる人によってはそれほどのことだけど、やっぱりそういうところは少し慎むべきことなのかもしれない。
つって、結局いつもどうぞご自由にお触りくださいとしてしまうのだけど・・・
今日(11日の朝というか昼)は12時30分に起きた。
普通に考えて、授業も遅刻の流れ。私の朝の準備は最低50分はかかるのだ。
本当ならば朝の内にしておきたいことが3つ4つあったがそれも放置した。
一昨日の晩に日記につけたことは珍しく結構こなせたのでやるべきことは少しくらい積んでも大丈夫だろうとその時は判断したのだけど、後になって考えてみればこの怠惰がいつも後悔に繋がっている。
そうやって課題を積んでしまったぶん、娯楽のほうを優先的に処理した。
一昨日まで半分ちょいしか読めていなかったスカイ・クロラはその日の勢いで全部読み切った。どうやら本を読むというのはその日のテンションに左右される部分が大きいようだ。
それが結構、今日も続いていて、授業中(他の人が面談している中)に2巻目のナ・バ・テアを80ページほど読んだ。
スカイ・クロラを読んでいても思ったのだけど、これらの本、たくさん縛られた紐がほどける感覚がもの凄く心地良い。ファンタジー(?)を読んでいるのに、何かミステリを読んでいるような感覚にふと襲われる。これも作者が森博嗣たるせいなのであろうか。そういう私は森博嗣のミステリは積みっぱなしで一冊も読んでいないのであまり信憑性のある発言ではないけど、とにかく、世界の描き方というものが、やはりこういう趣向が好きなのだなと自分で改めて納得する。
つまり、上遠野浩平のブギーポップの一冊目で書いてたような、
"物語の登場人物は、自分の役割の外側を知ることができないのだ。"
ということ。
だからこそ、主観的に主観に入り込める。そんな気がした。
それが気に入ったので、奨学金も入ったことなので、
"ナ・バ・テア"と"ダウン・ツ・ヘブン"
を買ってきた。
授業のほうは、適当に、そつなく何もしていない課題のことをさも模索していたかのように語っておいた。後で問題にならなければいい。
今日は授業を終えてからも学校にはいて、何かと作業をしていた。自分のことは今日も何一つ手をつけていないから、この穴をどこで埋めようか思索しなければいけない。課題からとえりあえず少しでも開放されたいと思うけれど、それ以上に考えないといけないこともある。
どうにしても、今がかなり面倒くさい時期にあることに変わりはない。
外が明るくなってきた。
どうもこういう朝の霧がかった空気は好きになれない。徹夜してしまったという後悔の念もあるし、子供時代、早起きをしなければならなかったラジオ体操とかのことを思い出す。
生活リズムなんてものは誰が決めたのだろうか。早寝早起きは体にいいとよくいうが、それはどこまで確かなのだろうか疑問に思う。
逆転的に発想して夜型の生活を+の方向に、ようは遅寝遅起きを肯定、よしとする方向で研究したら結果はどうなるのだろうか。
歴史がつくった文化というものを盲信して、良い悪いの分別がそこからつくられてしまうことがどうも納得がいかない。
先人がやったことは偉大かもしれない。だけど、それ以上に失敗というか、考え違いもしているはずだと思う。多くのことを考え、理屈を付けたってろくでもないことは結局ろくでもないんじゃないかな。
それではおやすみなさいそしておはようございます
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